平田雅己准教授シリーズ「欧米」を考える(4) 「軍事超大国アメリカの深層を読む ~制度・記憶・犠牲~」

第73回 Human & Social サイエンスカフェ

日時 2015年12月19日(土) 15:00 - 17:00

内容 講義名:シリーズ「欧米」を考える(4)

「軍事超大国アメリカの深層を読む ~制度・記憶・犠牲~」

講師名:平田雅己准教授(アメリカ政治史、国際関係論)

私のサイエンスカフェ・デビューでした。会場は定員一杯で、顔ぶれを見ると大学関係者はほとんどおらず、大半が一般市民の方のようでした。大学から離れた会場で雰囲気もよく、講演の後の質問もたくさん出て、市民の方々の関心の高さ・深さを知りました。
オバマさんと言うと、ノーベル平和賞も貰い、銃規制にも積極的なイメージがあり、好きなタイプでした。しかし平田先生のお話を聞いているうちに、そうでもないな、やはり史上初の白人ではない大統領として、全く革新的な政策は取れず、今までの政治の流れに逆らえない現実があることを痛感しました。
それどころか、軍事予算レベルは第二次世界大戦以降最大規模になっているということです。データを提示してくださったのですが、棒グラフがはっきり示していました。
またオバマ外交のタカ派的な側面が顕著に表れているのが、アルカイダやタリバンといったイスラム過激派を狙った米軍またはCIAによる隠密の無人機攻撃作戦であることも教えて頂けました。
イラク戦争が泥沼化した2006年以降、急激に自殺者が増加。2012年、現役兵の自殺者数349名は、戦死者数229名をはるかに上回る過去最悪を記録したそうです。
日本も2003年から2014年までの12年間に1044名の自衛隊員が自殺しているそうです。安保法案を通してしまった現在、その数が多くなるか少なくなるか、読者の皆様でご想像ください。
大変分かりやすい講演で、またサイエンスカフェに出掛けてみたくなりました。

天野哲孝(人間文化研究科前期課程院生)

サイエンスカフェ

日木満 教授「たかが冠詞(名詞形)、されど冠詞(名詞形)~日英語比較言語学の世界へようこそ~」

第72回 Human & Social サイエンスカフェ

日時 2015年10月17日(土) 15:00 – 17:00

内容 講義名:シリーズ「欧米」を考える(3)
「たかが冠詞(名詞形)、されど冠詞(名詞形)~日英語比較言語学の世界へようこそ~」

講師名:日木満 教授(英語言語学)

今回のテーマ「たかが冠詞(名詞形)、されど冠詞(名詞形)」は、とてもキャッチーであるのと同時に、冠詞、名詞形といったトピックは英語学習者にとって永遠の課題ではないだろうか。

日本語を母語とする私たちにとって、冠詞や名詞形(a, the, one’s, -s)というものは馴染みがなく、たとえ文法的に誤っていても、具体的に何がおかしいのか気づくことが難しい。私はこれまで名詞を可算名詞として扱う時と、不可算名詞として扱う時に、意味が異なることには注意を払っていた。しかし今回は例文を通してその違いだけでなく、冠詞や名詞形の違いが形容詞の意味、前置詞、動詞などあらゆる他の品詞にも変化をもたらすことを学んだ。やはり、たかが冠詞(名詞形)と言っても、実際にはそれらの使い方によって伝えたいことと、伝えられることは一致しない可能性が出てくる。

本講座では、文法上の正誤という問題を越えて、コミュニケーションをとる上で発信者としての自分の責任を自覚し、冠詞や名詞形を使いこなす必要性を強く感じた。私の場合、相手に直接伝わる方法で、意志疎通ができるようになりたいので、今後は少々細かいとも思われる冠詞や名詞形にも気を配りたい。また、冠詞や名詞形を突然使いこなすことができるようになるとは思わないので、英語学習者として地道にインプットとアウトプットを重ねていきたいと思っている。

渡邉あかね(本学学部生)

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川本徹 准教授「岩石砂漠の映画文化論 -ジョン・フォード西部劇の風景を読む」

マンデーサロン

岩石砂漠の映画文化論 -ジョン・フォード西部劇の風景を読む

2015年7月13日(月) 午後4時30分~6時

講師 川本徹 准教授(アメリカ文学・文化)

「映画のイメージが歴史をかきかえる」これが今回の発表の一番の面白さだったように感じる。西部劇もジョン・フォードもよく知らなかった私が、モニュメントバレイに対する川本先生の熱のこもった発表に次第に引き込まれていった。

商売人ハリー・グールディングはアメリカ西部の力強い岩石群、モニュメントバレイの存在をジョン・フォード監督に紹介した。ミトン、玉座の王様など後に名 づけられた岩々がそびえたっている風景は、誰もが無意識に目にしたことがあるだろう。そしてそれ以来、20世紀のあらゆる映画にその情景が使われるように なった。その結果、アリゾナ州とユタ州の間に広がるモニュメントバレイが、まるでアメリカ西部全体に存在していたかのような19世紀のイメージをつくりだ したのだ。つまり、映画が集団意識レベルでのイメージをかきかえてしまったのだ。さらにモニュメントバレイの情景は映画以外でも一人歩きし、列車や飛行船などの技術と結びつき、あたかも人間が開拓した列車がはしっていたかのようなイ メージまでつくりだしてしまう。しまいには核技術のイメージともリンクしだすが、興味深いことに、この存在は現実の出来事であるのだ。実はあのハリー・ グールディングがウランの存在も人々に伝えていたのだ。核という影の歴史イメージは本当であるようだが、ここにアメリカのアイデンティティを見出すことが できると川本先生はおっしゃる。アメリカの壮大な大自然であるモニュメントバレイとそこに対峙する科学技術の相乗効果により、ヨーロッパとは違うアメリカ の自信を表しているのではないかという。そんな人間心理まで分析されていた。

アメリカのモニュメントバレイから、映画イメージの影響力、そしてアメリカらしさまでもが浮き彫りとなった発表は実に面白く、またマンデーサロンに参加したいものだ。

太田彩菜(愛知淑徳大学生)

マンデーサロン

矢野均教授人間文化研究叢書 5 矢野均『不確実状況下における多目的計画問題に対する意思決定手法』(丸善プラネット, 2015年)合評会

マンデーサロン

人間文化研究叢書 5 矢野均『不確実状況下における多目的計画問題に対する意思決定手法』(丸善プラネット, 2015年)合評会

2015年6月22日(月) 午後4時30分~6時

講師 矢野均教授

人間文化研究業書として、本年2月に出版された上記の本は、著者の10年にわたる研究成果をまとめたものである。たしかに世の中、不確実性に満ちており、あちらを立てれば、こちらに不満が増大するといった競合的な多目的問題が常駐している。このような解決が困難に思える課題に対してどんな方法論があるのかは大方の関心事である。著者は確率論、ファジィ理論を駆使してパレート最適を満たす中からある意思決定を行う手法を提案し、その数学モデルを構築し、農業問題への応用例に示している。

質疑応答での話題は、沖縄問題、東芝の粉飾決算、地域開発に携わる方からの農業政策の生々しい問題、さらには教授会での意思決定にも使えるのではないか、等々であった。

率直な感想を述べさせていただきたい。かかる研究は数学を駆使しているとはいえ、一つの理論、一つの仮説であって、数学上扱いやすい正規分布を仮定し、ファジィ集合を表すメンバーシップ関数も適当に設定して構築された数学モデルであり、ファジィ制御のような実践的成果を伴う研究とは異なる。示された応用例は、むしろ理論を分かりやすく説明し、対話型のシステムがどのように機能するかを確認するためであり、まだ理論と現実との乖離は大きい。しかし、権力、金、意思決定者同士のそれぞれの欲望が渦巻く現実問題にもその応用可能性の期待を聴衆に抱かせたのは、これは異文化のなせる業(わざ)であろうか。この日、私の中に残像とし残ったのは、「異文化交流」という言葉の中の「異」のとんでもない深さであった。だからと言って本研究の価値を少しでも過少評価するものではない。理論が現実の一部を掬い取ったときそれは大きな力になるからである。

塚本弥八郎(市民)

マンデーサロン

マンデーサロン

小林かおり教授シリーズ「欧米」を考える(2)「『じゃじゃ馬たち』の文化史 ~シェイクスピア上演と女の歴史~」

第71回 Human & Social サイエンスカフェ

日時 2015年6月20日(土) 15:00 - 17:00

内容 講義名:シリーズ「欧米」を考える(2)
「『じゃじゃ馬たち』の文化史 ~シェイクスピア上演と女の歴史~」

講師名:小林かおり教授(イギリス文学)

今回のテーマ作品であるシェイクスピアの『じゃじゃ馬ならし』は、一般的には馴染みが薄く、『ハムレット』や『ロミオとジュリエット』のように有名な作品ではない。しかし、あえてこの作品の話題性を考慮して私達に紹介いただいた小林かおり先生の意気込みが、概要説明文だけでなく映像など多彩な手段で教授されたことから感じられた。

『じゃじゃ馬ならし』は1592年から1594年に書かれ、シェイクスピアの初期の作品である。時代考証を日本と比較すると1600年の関ヶ原合戦の数年前に完成したことになる。原作の題名は、The Taming of the Shrewで、辞書によると、tameは飼いならす、服従させる、という意味であり、shrewはがみがみ女、口やかましい女、じゃじゃ馬と訳されている。題名のみから推察するとやや陰湿なイメージであるが、内容は茶番的な場面が含まれており、『じゃじゃ馬ならし』(シェイクスピア著、福田恆存訳、平成25年、新潮社)が、シェイクスピアには珍しく悲劇的な要素をほとんど含まれない喜劇の一つであると解説しているように、シェイクスピアにとってはめずらしく女性が主人公になっている。

小林先生の著書『じゃじゃ馬たちの文化史』(2007年、南雲堂)では、『じゃじゃ馬ならし』が問題劇であるのは、テクストに描かれた二人の関係を一枚岩にとらえるのが難しいためであると、述べられている。なお、最後の見せ場では、カタリーナが夫・ペトルーキオに従順になっていく様子が描かれているが、従順とは名ばかりで、男女のずるさが背景にあるように思われる。

講義の冒頭、「芝居は自然を映し出す鏡で、それぞれの時代・場所の社会的・文化的コンテクスト(背景)のなかで生きる私たちの姿」と紹介があり、さらに講義中の質疑応答では、この作品の妻の従順なふるまいが話題となり、受講者の男女間では異なった感想が寄せられるなど、ジェンダー観、結婚観などの観点から現代でも重い課題を投げかけている文学作品である。しかし皮肉にもこの六月に文部科学省が国立大学の人文社会科学系の学部には廃止を含む見直しを迫っているという新聞報道があったばかりのタイミングで今回人文社会科学の講座を受講できたことは改めて人文社会科学の研究の重要性を再認識でき、有意義な時間を過ごすことができた。

纐纈俊夫(同研究科前期課程)

サイエンスカフェ

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