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岡村弘子名古屋市博物館学芸員「桃山文化と御殿の深~い関係」

マンデーサロン 2010年9月27日(月)

テーマ: 「桃山文化と御殿の深~い関係」

講 師: 岡村弘子名古屋市博物館学芸員

市立大のマンデーサロンに参加させていただいた。話題は「桃山文化と御殿の深~い関係」という市博学芸員 岡村弘子さんのお話であった岡村さんは25日から市博で開催中の企画展『桃山』を担当されてきた一人で、三年前から準備されてきたとのことであった。マンデーサロン

桃山というと伏見桃山城をだれもが思い浮かべるに違いない。障壁画や豪華絢爛な荘厳、調度品が思い浮かぶだろう。桃山の時代の資料が展覧されている由だが、今日の講演は城と御殿についてであった。(展示の目玉商品に信長画像、二条城障壁画があります。)

信長が築いた安土城から始まり、秀吉の聚楽第、大阪城、そして築城400年で喧しい名古屋城、二条城と具体的に城と御殿のスタイル、設計がどう変わってきたかを、図面や絵図を使って説明された。一般的というよりはかなりのところ専門的というか、けっしてポピュラーとは言えなかった。しかし、御殿建築の様式の変化を時間の経過を追う形で説明されたので聞いていればなるほどとは思える。それでも興味がない人には、難しい話だろう。(受け手を考えた工夫がいる。)

安土城の行幸御殿は発掘結果に照らしてみて殆どこれ以上面積をとるのが困難ではなかったかと、考古学の発掘が歴史の読み解きに大きな役割をしていることは面白い指摘だった。聚楽第の絵が瓦葺の城と桧皮葺の御殿を画き分けているのもなるほどと思った。主殿の上段の間の変化など、どういう理由か形(=間取り)が変化するのも政治の場所としての御殿を考える意味で興味あることだった。問題が投げかけられたが答えは出ていない。

名古屋開府400年がユルキャラや武将隊やらを動員して歴史の真実とは言えない話を広げているころで博物館の記念企画が際物になるのは厭だなと思っていたのですが、さすがに担当学芸員さんたちは科学的な態度で取り組んでくださっていることがわかり、困難の中に努力されていることを感じた次第です。

西浦芳郎氏(市民)