森 哲彦教授「カントと人間-剛と柔-」

第14回 サイエンスカフェ 2008年7月20日(日)

テーマ: 「カントと人間-剛と柔-」

講師: 森 哲彦教授

講師の話や用意された報告文、資料は、今日生きるカントに焦点があてられ、しかも真心がこもっていて、私としては大変よかったと思う。しかし参加者の方から「これは学会ではないのだから、現代人にとって問題である、どうしたら社会がよくなるのか、この所で話がしてほしかった」という発言があった。森先生はそのことを話されたのであるが、不鮮明な所あって、意が十分に伝わらなかったからこういう発言が出たのだと思う。森先生は、カントがルソーの「人間愛」思想に触れ、一般者を低く見る研究者然としていた己の生き方を反省し、差別主義でなく、人間愛に満ちた生き方をしようとして、そのためには人間が自由で平等である根拠を示す必要があるわけで、カントは「3批判」でその根拠を示し、その成果においてカントは人間愛に満ちた世界を「人間学」として叙述したと語られた。

資料が厖大であったことも起因して、不鮮明に終わったことは反省材料である。
単語に「水深ければ底見えず、水浅ければ大魚を容れず」(水深不見底、水浅不容不大魚)とある。思想を語るにはある程度の難しさは避けられないのである。弁解のようでおこがましいが、了解していただきたく思う。そして皆さんの辛抱をお願いしたい。

久田健吉(市民学びの会会員・哲学サークル担当)

 

講師を含め32名の参加があって盛会であった。予想を超える参加者につき、冒頭部分で手違いがあり不愉快な思いをさせたことを主催者側からお詫び申し上げます。

斉藤典子さん「オリンピックと競泳と水着」

第16回 マンデーサロン 2008年7月14日(月)

テーマ: 「オリンピックと競泳と水着」

講師: 斉藤典子さん(サイトーアクアティックアカデミー代表、人間文化研究所特別研究員)

マンデーサロン斉藤典子 古事記・日本書紀における水浴から鎌倉・江戸時代に誕生した日本泳法、近代オリンピックと競泳、そしていま話題のS社の水着「レーザーレーサー」。日本人が長い歴史のなかで祭礼・水練・水泳と形を変えながらいかに「水」と親しんで来たか、そして現在なぜ水着が問題となっているのか。歴史的な経緯を順に追いながら、明瞭、快活に語ってくださいました。

斉藤先生もご自身のご活躍と経験から「水着一枚でやってきた!」とおっしゃったように、競泳は用具のパフォーマンスに左右されず、実力で勝敗が決まる公平な世界と思われてきました。しかし、その水着一枚が勝敗に影響する事態になったことについて、選手の身体への影響と公平性の問題から懸念されます。密着して筋収縮による隆起を矯正する水着が選手の身体に及ぼす影響に関する情報の不十分さ、そして水着が高価・希少であるために北京オリンピックに際して入手できない地域や選手が出てくることでした。話題のS社の水着の変わりに、M社の競技用の水着に触れる機会が用意されました。

現在、斉藤先生はおもに乳幼児を対象とし、健やかな発達の保障と生活領域の拡大を目指し、水中運動とリズムを融合させた「アクアミクス」を考案されて実践と研究に励んでいらっしゃいます。映像とともに実践の様子を紹介してくださいましたが、子どもたちの生き生きとした表情は、活動がいかに楽しいものであるかを物語っていました。斉藤先生の子どもや水泳に対する温かいまなざしを感じ、競技種目としてだけでなく子どもの心身の発達に寄与する楽しい活動としての水泳のあり方について考えさせられるお話でした。

渡邊 明宏(同研究科博士後期課程)

太田昌孝さん『西脇順三郎と小千谷-折口信夫への序章』

第15回 マンデーサロン 2008年6月16日(月)

テーマ: 『西脇順三郎と小千谷-折口信夫への序章』

講師: 太田昌孝さん(博士後期課程・一宮女子短期大学専任)西脇順三郎と小千谷-折口信夫への序章

西脇順三郎という詩人をどれほどの方が御存じなのでしょうか。かく申す私は、近代文学を修行中の身でありながら、そういえば「詩と詩論」メンバーの中に見かけたかしら、という程度の認識しかなく、正直なところ、広範な近代文学史の中の一人に過ぎませんでした。しかし昨年、課題研究において西脇の斬新な詩に触れ、大いに面食らったと同時に、このような詩を綴る西脇という詩人は一体どういう人物なのだろうと、興味をそそられたものでした。その好奇心に答うるべく、太田さんは今回、最近見つかったという新資料「西脇義一郎日記」をもとに、西脇の文人としての基礎固めに当たる英国留学の時期にスポットを当て、西脇の人となりを中心に、熱く語って下さいました。

まず初めに、従来の西脇研究の傾向として、主に西欧文学からの視点と、日本詩壇における「西脇詩学」や先駆的な詩論展開など、「モダニズム」の先駆者としての視点という2項目を挙げられました。しかし一方で、西脇は中国哲学や日本文学にも傾倒しており、特に後年の芭蕉への傾倒が甚だしかったことを指摘され、この新たな視点を今後のご自身の課題として示されました。

そしていよいよ新資料が紹介されました。「義一郎日記」が西脇研究にとってどこまで有意義かはわかりませんが、という控えめな前置きがなされましたが、当資料から判明した新事実は、どれも興味深いものばかりでした。日記により、これまで曖昧だった渡英年月日が明らかになったのみならず、渡英までの西脇の行動の詳細もまた明らかになったというものでした。

7月6日から10日までの数日間、船の出入港にあわせ、複数の西脇家分家にて送別会が行われ、特に義一郎氏は陸路西脇を追いかけ、合計4か所ほどで彼と合流し、行動を共にしていた事が判明しました。このことから、西脇一族の結束の強さ、義一郎氏との親密な間柄をうかがい知ることができました。そして、さらに興味深い事実として、この限られた時間のなかで、義一郎氏に促され、二人は京都、奈良を共に巡り、元来苦手だった大仏まで拝観していたことも判明しました。当時の洋行は死と隣合わせであったことから、決死の洋行の前に西脇が最後に見ようとした日本が京都、奈良であったのだろうという点を指摘され、新進の英文学者が異質ともとれる古都にひかれた点に着目されました。そして、この時垣間見られた古都への想いは、後年中国哲学、日本文学への傾倒という形で表面化することも示唆されました。

この他、教師としての西脇の逸話も多数紹介されましたが、いずれもにわかに信じがたいほどの奇行であり、場内笑いが堪えませんでした。
太田さんは、西脇の詩を老人の戯言とみる風潮が詩歌の研究者の中にもある現状に対し、大変な「誤解」であり、それを解いて見せることが目標だとおっしゃいました。優れた翻訳家としての西脇ではなく、優れた詩人としての西脇を再評価するのは、日本文学をご専門とするご自身の仕事であるという、強い責任感のようなものを感じました。

西脇研究の第一線で活躍されている太田さんのご報告は、その深さにいつも圧倒されますが、楽しい逸話も多数織り交ぜてくださるので、和やかなひと時となり、今回もあっという間に時間が過ぎてしまいました。同じ文学を志す者として、遥か先を行かれる身近な先輩に、毎回良い刺激をいただいております。以前課題研究に行き詰まり、「とんでもないことを始めてしまいました」と申し上げたところ、太田さんから「研究は一度始めたらもう戻れないよ」との温かい(?)励ましのお言葉をいただいたこともあり、私の大学院生活の指針となっております。 今後のご報告も楽しみにいたしております。

富永加代子(人間文化研究科博士前期課程)

奥平俊子准教授「不登校:理解と対応」

第13回 サイエンスカフェ 2008年6月15日(日)

テーマ: 「不登校:理解と対応」

講師: 奥平俊子准教授

サイエンスカフェ不登校が起きるのは貧しいコミュニケーションがあるからであり、その背景には人間関係の障害という問題があり、またその背後には低い自己像という問題があるという4つの観点で整理されていた内容を聞き、私達は現象、ここでいうと不登校ということを問題にしてその現象をどう解決すればいいのかと思いがちなのだけれども、先生はその部分だけに焦点をあてるのではなく全体像をまず理解することが大事なのではないかと提起されているように感じました。

子どもが不登校になるのは親のせいだと思いがちですが先生はそうではなく、親もそうなってしまった原因、背景があるのだから親が悪いわけではないという話をされていたのを聞いて本当にその通りだと思いました。親も愛情を受けていなかったから子どもに対しても愛情を注ぐことも難しい。だから、先生の言葉にもありましたが、自分のことをまずは受け入れ、自分にも愛情を注ぎ、子どもに対しても愛情を注ぐ自分に変化をすることが大事だと思いました。

体を撫でる(タッチング)という具体的な子どもへの愛情の伝え方も紹介されていました。愛情も持っているだけではなく、それを相手に伝わるように伝えること。その大切さを学ばせてもらいました。

最後に長年カウンセリングにされていた実践から来る言葉はとても深みがあり、説得力があり、何よりも奥平先生ご自身が誰よりも愛情が深い方だと感じました。本当に価値ある内容をどうもありがとうございました。

園田 誠一郎(市民)

宮田 学教授「日本人の英語はどこまで通じるか?」

第12回 サイエンスカフェ 2008年 5月18日(日)

テーマ: 「日本人の英語はどこまで通じるか?」

講師: 宮田 学教授

サイエンスカフェ
予想とは反して、日本の高校生の書く75%以上の英文がネイティブスピーカーにも理解されているという調査結果を知ると、世間から非難の多い日本の英語教育は決して間違っていないと考えざるを得ない。

日本人の生徒や学生が誤った英文を書くことは、日本語と英語の言語体系が異なることを考慮すると極めて自然なことであろうし、英文の誤りを気にせず、積極的に自己表現を促す教育が必要であるように考える。文法の小さなミスを恐れて、コミュニケーションという本来の活動行わないのは非常にもったいない話である。事実、一般的に日本の英語教育で1番重視される文法的誤りは、文の中で理解を助けるものが存在するため、ネイティブスピーカーはそのメッセージを容易に補正し、理解してくれるのだ。英語は完璧でなくてもいいことが数値で実感できた。

特に印象深いのは、誤解を引き起こした誤りが、論理的誤りと語用論的誤りにおいて高い確率が示されていることである。論理的に考え、それを表現することは非常に重要であるし、それを助けるのは英語の力ではなく、むしろ日本語の力であるように考える。そして、1文単位で和文英訳するのではなく、段落や文章レベルでライティングすることによってcommunicabilityを高め、外国人とのコミュニケーションを円滑に進めることができるように、日頃から意識することが重要であると宮田先生の話を聞いて認識できた。

品原 健征(同研究科博士前期課程)

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